ヴェルディ黄金期メンバー『ビスマルク』さんの現在…
Jリーグ創成記に眩いばかりの輝きを放った超大物ブラジル人選手。もしビスマルクが日本へ来ていなければ、Jリーグの最初の9年間の歴史は違っていたかもしれない。精巧なテクニックの持ち主で、ほとんどミスをしない。派手さはないが、状況判断が素晴らしく、常に最適のプレーをやってのけた。勝負強さも群を抜いていた。
カリオカ(リオっ子)だが、ブラジル人の一般的なイメージとは正反対で、生真面目で物静か。敬虔なクリスチャンで、得点後、跪いて眉の間を右手でつまんで神に祈りを捧げるポーズが一世を風靡した(本人は、「点を取ったことにではなく、神様に日本という素晴らしい国でプレーする機会を与えてもらえたことへの感謝だった」と打ち明ける)。
8歳の時、リオの名門ヴァスコ・ダ・ガマの下部組織に入り、16歳にしてトップチームからデビュー。あのロマリオとも一緒にプレーした。1989年のワールドユースでMVPに選ばれ、1990年ワールドカップに20歳で招集される、というフットボール王国のエリートコースを歩んだ。
ヴァスコで5年間プレーした後、新たな挑戦をしたいと考え、Jリーグが開幕した1993年、23歳の若さでヴェルディ川崎へ。三浦知良、ラモス瑠偉、武田修宏らと創造性豊かな攻撃陣を構成し、、二年連続でJリーグとナビスコ杯の二冠を達成。黄金時代を築いた。
1997年に“宿敵”鹿島アントラーズへ移籍すると、今度は小笠原満男、本山雅志、中田浩二らと共に5シーズンで3度、J王者に輝く。2000年には、Jリーグ、ナビスコ杯、天皇杯の三冠達成という初の偉業を成し遂げた。
2003年、ヴィッセル神戸を最後に引退すると、ブラジル有数の敏腕代理人と共同で代理人事務所を設立。リオとポルトアレグレにオフィスがあり、約60人の選手を日本、中国、欧州各国など約10カ国に送り込んで、忙しい日々を過ごしている。
日本には、2005年にFWアレックス・ミネイロを古巣の鹿島へ、2019年に右SBマギーニョを川崎フロンターレ(今季から横浜FC)へ送った。引退後、代理人になることは現役時代から考えていたという。
「指導者になることは考えなかった。数十人の選手を管理し、クラブ関係者、メディア、サポーターらと良い関係を築かなければならないし、常に勝利を求められることは大変なプレッシャーだからね。
選手時代、僕は代理人がいなくて苦労したので、かつての自分のような選手を助けてあげたいと考えた。代理人には色々なタイプがいるが、自分はあくまでも誠実に仕事をするのがモットー。誰に対しても決して嘘をつかず、約束は必ず守る。これは僕の父親の教えでもある」
サッカーダイジェスト
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/5e7c16cae5f2e05f5a1b797b07f87c228c6aefc0
次の10番本山と世代交代の儀式のようだった
神様がどうこう言ってるけどイメージと全然違うって。
外国人てそういうイメージ
なーにが神様だよって
レオナルド、ジョルジーニョ、ジーニョ、サンパウロ、ドゥンガとか、セレソンの実力派が揃ってたし
サンパウロ?
サンパイオじゃなくて?
何故出来て間もないリーグに来たの、有名ロートル選手が年金稼ぎにくるのは理由が
分かるけど、若いのに何故欧州に行かなかったのだろう。
宇佐美みたいなキャリア
将来嘱望されてたけど、20歳手前くらいで代表判入れるか入れないかって微妙な立ち位置になったから金で日本に来た
当時はボスマン前だから欧州の絶対性はまだない
1990年代のヨーロッパサッカーの状況は今とは全く違う
当時セリエ1人勝ちだったが年棒やスポンサー収入は今よりずっと低い
逆にJリーグはレベルは低いのに年棒は高くスポンサー収入なども見込めた
ドゥンガ、リッティ、リネカー、ピクシー・・・創成期はとくに凄い
この25年間で欧州1部でのサッカー選手の給料は十倍に跳ね上がった。
その頃の日本ではサッカーバブルでヴェルディなんかは微妙な選手も1億円を平気で払ってた
日本は逆に給料が全く上がらなかった
長年に渡るクラブの象徴でMVP獲得してる代名詞
看板選手のヤットやら憲剛やらでも1億円台
欧州がすごい勢いで豊かになったのが、そして日本が貧しくなったのが全て悪い
ジーコの存在が大きいだろうな
現役復帰したジーコの映像はくり返し流れていただろうし、
当時はJも熱狂してたから新しい可能性に賭けたんだろうな
ラモス。。。。
常識だぞそれ
更に権力ももぎ取ったからな
最初はビスマルクが走らないからその分走り回ったらしいな
当時は上手すぎて惚れ惚れしたもんだがJも相対的にレベルが上がった
写真載せて欲しかった
2018年11月のビスマルク
https://pbs.twimg.com/media/DtAgkaaXgAUC08z.jpg
えwwwwwww
わかります
あの怪我以降、久保は怪我がちになった
ファールすれすれの体当たりもかまして。
しまいにはビスマルクが切れて本田泰人を小突いた。
いつもペレイラどごっちゃになる
当時はそんなに話題じゃなかった記憶がある。
94年からか
86マラの大会の後だから、大会前はオランダトリオを中心に
盛り上がっていた。大会自体はディフェンシブでショボかったが・・
何故かカニージャのインパクトが強い。
記憶が曖昧だが
準々決勝でブラジル沈めた一撃はカニージャだからか
あの一発で日本で名が売れて
数年後アルヘン代表としてキリンカップで来日した時、
地球の裏側の島国で自分が有名人であることを知って
ビックリしてたんだよな
転載元: ・https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1594600199/
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